山科さん
フリーランス 神奈川県から移住

なにもないけどどこかかぐわしい町。それが移住者として尾道に降り立った一番初めの印象でした。
昨年の十二月のことです。僕は期待と不安をパンパンに胸に秘めて、契約していたアパートの鍵を受け取りに不動産屋まで向かいました。

「これから頑張ってね」

社長はこわもてで、声も低く太かった。でも、まなざしはあたたかい。事務所の外に出ると、陽はすでに暮れようとしていました。

荷ほどきを済ませてから、夜の町をすこし散歩してみました。興奮していてとてもすぐには寝付けそうになかったし、夜の尾道の表情が見たかった。

車通りがなく店の照明も消えた、光のとぼしい道を行くと、船着き場までたどり着きました。そこからのぞむ尾道水道はまるで山あいの湖のようだと思いました。

それだけ水の流れが穏やかで、辺りは静まり返っていた。その日はたしか雨上がりだったと記憶しています。霧の向こうには小さな里山が広がり、その下を支えるように街灯の明かりがぽつぽつとともっていました。それはまるでマッチの火のように儚げで情緒的でした。

前置きが長くなりました。

僕の名前は山科遼介といいます。二十五歳で、尾道でフリーランスライターとして活動し、そのかたわらで小説家を目指すべく創作に励んでいます。神奈川は茅ヶ崎から移住してきました。いわば湘南ですね。

と、まぁ、なんだか都会人のような自己紹介になりましたが、往々にしてこういう人間は田舎者だと相場が決まっているような気がします。そうです、僕の正体は愛知県の地方都市で育ち、大学の卒業と就職の失敗をきっかけに上京した、東京ではごまんといる地方出身者です。そんな僕がなぜ尾道への移住を決めたのか?それはやっぱり僕が田舎者だったからなのです。

あるいは地方から上京した方々には分かってもらえるかもしれません。上京してからというもの、僕はやること成すことすべてにおいて苦労していました。おびただしい数の人々、背の高い建物、狭すぎる住環境――。もちろん、東京でしか得られない機会や出会いもありました。僕の職種はライターですが、新聞社や出版社の数が東京はケタ違いに多いです。どこの馬の骨か分からない当時の僕をひろってくれ、業務委託で仕事を与えてくれた会社には、いまだに感謝してもしきれません。ですが、いつまで経っても都会に馴染もうと背伸びをしている感覚が抜けきらず、しだいに僕は疲弊していくようになりました。環境を変えようと、住居を湘南に移してみるなど試行錯誤をしてみましたが、いかんせんしんどさは変わらない。そんな中、世間ではコロナが流行しはじめ、都会に住むことの弊害がよりいっそう僕の目には鮮明になっていきました。

都会のもっとも嫌だったこと。
それは一人で静かにものを考えられる環境の少なさでした。

人生や創作の糧にすべく、仕事やプライベートを通じて、たくさんの人たちとお会いしてきました。東京ではまるでドラマのように華やかな人種がわりと近くにいたりします。彼ら彼女らと会えばおのずと自分も同じように高みに行けるのではないかと、当時の僕は浅はかにも考えていました。ですが、途中でうっすらと気づきはじめます。ひとつひとつの出来事を丁寧に自分の中に落とし込まないことには、とても成長なんてできないのかもしれない、と。

つまり内省する時間が東京には圧倒的に欠けていたのです。

いえ、あるいは要領のいい方であれば、その環境がどれほど騒がしくとも、器用に自分の時間を捻出できるのかもしれません。ですが、僕のように不器用な人間は、よくもわるくも周りの環境に左右されやすいため、都会にいるだけで擦り減ってしまうような気がします。ともかく静かな環境に身を置かないことには、自分と向き合うことができないのではないか。小説家志望の人間として、あるいは二十代というあらゆる物事を柔軟に吸収し学び得る立場として、その状況は個人的にはかなり致命的だと考えるようになっていきました。

いまは幸いネットさえ繋がればどこでも誰とでも繋がれる時代です。そこで僕は田舎へ避難するというアイデアを思いつきました。

実は大学生の頃に旅行で尾道へ訪れたことがあります。
そこで目にした車窓からひらけた港町の光景が、ずっと脳裏に焼き付いていました。建物は古めかしく、海は光で満ち満ちていた。人の往来に慣れ親しんだ土地だからでしょうか、誰でも歓迎するふところの広さが、空気にふわふわと浮かんで目に見えるようでした。
「尾道はどうだろうか……」
そう思ってから、他の地域が選択肢に上ることほとんどありませんでした。とはいえ、当然のように観光と移住では話がちがいます。僕は事前に少しでも正確な情報を得ようと、行政の力を借りようと思いました。そうして行きついた先が、有楽町にある「ひろしま暮らしサポートセンター」でした。

そこで移住希望者向けの情報提供や、セミナー・ツアー等の紹介を受けて、僕の尾道移住は現実的になっていきました。

とんとん拍子に移住計画は進み、気づいたら僕は尾道駅のホームに一人で降り立っていました。ですが正直なところ、かなり心もとなかったことをよく覚えています。

やはり新しい土地に移り住むというのは簡単なことではありませんでした。一番大変だったのは、人間関係をイチから全部やり直さなければならなかったことです。学校や職場とちがって、誰かが僕を気にかけてくれるわけでもない。僕のほうから話しかけにいかないことには、ずっとひとりぼっちのままでした。

ただ、尾道にはゲストハウスやライブハウス、カフェやコワーキングスペースなどの小さなコミュニティーが点在していて、そこで移住者同士、もしくは移住者と地元の人たちが交流しているとは聞いていました。

おろおろしてないで、まずは動き出さなきゃ……。途中からそう考えを改めて、僕は人の集まる場にすすんで顔を出すようにしました。その中の一つが、コワーキングスペースの「オノミチシェア」です。コンシェルジュの後藤さんを筆頭に、先輩移住者が親身になって相談に乗ってくれたおかげで、僕はようやく誰かと繋がっている感覚を得られました。

僕は尾道水道を眺めるのが大好きです。
むしゃくしゃしたり、考えたいことがあったりすると、よく海沿いのてきとうな場所に座り込みます。ベンチやデッキやコンクリートの波止場、たとえそこがどこであっても、視界いっぱいに海が見渡せます。荒れることを知らないしずかな海は、見るたびに僕の心を落ち着かせてくれる。港には雁木(がんぎ)と呼ばれる、石でできた階段状の船着き場もあり、そこから海のおもてを見つめると、そのまま下まで降りて海底の世界にいける気すらしてきます。かつて港湾都市として繁栄したおもかげといいますか、活気の残り香のようなものが、まだまだ水面には色濃くただよっているように見えて、それゆえ海の印象もけっこう味わい深いのです。もっとも、移住してからだってうまくいかないことは多々あるのですが、そうやって海を眺めていると、不思議とどうにかなりそうな気がしてくるのです。

思えば、尾道は映画の舞台になったり、近現代の文豪が滞在していたりなど、海運業にとどまらず文化面でも豊かでユニークな土地です。そのためでしょうか、絵描きや歌い手や文筆家などのいわゆるクリエイターともよく遭遇します。

乱暴にいえば、僕は東京から田舎に逃げてきたわけですが、尾道という土地は、田舎という言葉で一概に括れないほどに豊かなのだと気づかされます。

それはたぶん、ここが長年育んできた歴史がそうさせているのでしょうし、それに引き寄せられて集まってきた熱心な移住者も、ひと役買っているのだと思います。

「尾道は、肥沃な土地でしょう?」
尾道で話したある男性の言葉です。

僕にはその意味が、日々を積み重ねるにつれて、だんだんと分かってきたような気がしています。

移住のステキを
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