導かれるように大崎上島へ〜田舎暮らしと子どもの教育、両方をかなえた家族のお話〜
私は、2016年の4月に滋賀県から大崎上島へ移住し、島暮らし9年目の菅原一恵と申します。
家族は、夫と息子2人の4人家族です。夫はプログラマーとしてフルリモートワークをしており、私はこの春、「おきうら学習塾」という幼児小学生対象の学習塾を開校しました。
子ども達は二人とも中学受験し、一人は県立広島叡智学園中学校に進学し島の中で、もう一人は県立広島中学校に進学し東広島で寮生活をしております。
移住体験談を募集しているのを知り、自分の8年間を振り返る良い機会だと思ってチャレンジすることにしました。
島に来る前の我が家の状況
今から10年ほど前、我が家は時限爆弾を抱えながら毎日を必死で乗り切っていました。
時限爆弾というのは何かと申しますと、夫の時短勤務が下の息子が小学1年生になる時になくなることが分かっていたからです。
当時、長男4歳、次男3歳、私は育休復帰2年目でした。私が小学校教師として復職するにあたって、時短勤務をしにくい私に代わって、夫が時短勤務を選択してくれました。そのため、夫が子ども達を保育園まで迎えに行き、ご飯を食べさせて寝かせてくれるという毎日を過ごしていました。晩御飯を週に何日かシルバー人材センターの方に作りに来ていただくなど、できる限りの工夫をして毎日を過ごしていましたが、頭の中には常に、時短勤務が終わった後の働き方のことがありました。
島との出会い
そんな頃、かねてから田舎暮らしに憧れていた夫が、とある集まりで大崎上島の青年と友達になって帰ってきました。そして、「大崎上島も移住者を募集している」という話を聞いてきました。それまでにも夫は京都の北の方や滋賀の北の方など、移住者を募集している地域に足を運んで話を聞いてきては私に打診をしてきましたが、寒いのが好きではない私は、断固反対していました。ですが、瀬戸内海の島。島と聞くと私の心はときめきました。
理由は、
- 大の島好きであったこと。今まで訪問した島は、白石島、真鍋島、小豆島、阿嘉島、西表島、石垣島、答志島、大崎下島などで、島に流れている空気感、島の細い路地が大好きです。
- 中学2年生まで兵庫県の明石市で育ったので、瀬戸内海は心の故郷であったこと。
- 島暮らしへの憧れ。海の見える場所で暮らしてみたかったこと。
でした。
それで、夫に「行ってみたい」と返事をし、家族みんなで大崎上島へ遊びに行くことにしました。
初めて大崎上島へ
5月の連休、初めて家族で大崎上島に上陸しました。
そして、他の移住希望者と共に、何件かの空き家を紹介してもらいました。
その時に、
「ここ、今年の4月まで住んでいた人がいたんですよね。」
と、教えてもらったのが今の家です。
海の見える高台にある築100年以上の古民家で、屋敷の下にはみかん畑があり、屋敷とみかん畑の間にある畑ではいちごが花を咲かせていました。そして、屋敷から下を見下ろすと歩いていけそうなところに小学校がありました。
「ここに住めたら楽しそうだね。」
そんな話をして帰りました。
島への移住を決定
「移住、いいな。島暮らし、楽しそう。」と思ったものの、移住を決定するには、生き方を180度変えなければなりませんでした。教師というやりがいも安定もしている仕事を手放すのは、勇気がいりました。ですが、せっかく授かった我が子達の成長を余裕のある生活の中で見てみたいという欲求の方が勝り、夫と話し合い、移住する方向で話を進めていくことにしました。
移住にあたって決め手となったことは、
- 幼稚園、小学校、中学校、高校、高等専門学校が島内にあったこと。特に、幼稚園と小学校が歩いて行けるところにあったこと。
- 島出身の若者が頑張っていたこと。
- 島内に図書館、スーパー、ドラッグストア、ホームセンター、銀行、郵便局など暮らしていくのに必要なものがあったこと。
- 夫が新興住宅地育ち、私が社宅育ちで地域というものに憧れをもっていたこと。
- フェリーの本数が思っていたよりも多かったこと。
でした。
特に、2.の島出身の若者が頑張っていたことに惹かれました。夫が最初に出会ってきた若者、空き家を案内してくれた若者、夫が仕事を決める時にお世話になったシェアハウスを運営していた若者、この3人の若者には本当にお世話になりました。
移住までの道のり
移住するにあたって、まず、家族が生活していかなければなりません。
そこで、夫は島で仕事を探すことにしました。幸い仕事が決まり、暮らしの目処がたちました。次は家です。「島暮らしをするならここで。」と思っていた例の古民家を貸していただけることになりました。ありがたいことに「もう自分達は島で暮らさないから好きなようにDIYしていいよ。」という条件付きで。私が惹かれたみかんといちごは、島に在住している大家さんの妹さんが管理していたことを知りました。
子ども達には、9月にもう一度島を訪問した時に、
「来年の4月からここに住もうと思うんだけど、どう思う?」
と、意向を確認しました。9月でしたが海に入って遊べたので、子ども達は、二つ返事で、
「いいよ。」
と返事をしてくれました。みんなの同意を得て、島暮らしをすることになりました。
住んでいたマンションを売り、2016年の4月に大崎上島へと移住しました。
海を毎日眺める日常が始まりました。
5月に訪問して、そこから1年の間にいろんなことを決定して移住するという目まぐるしい変化をやり切れたのは、若かったのだろうな、と思います。
子ども達と島で暮らして
島暮らしを決定してから1年の間に引っ越ししたのは、同じ移住するなら子ども達が少しでも小さい間に行った方が絶対に楽しいという思いからでした。
二人が幼稚園の間に移住したことは、本当に正解でした。
幼稚園が終わってから、「はやく水があったかくならんかな」としょっちゅう海へ遊びに行きました。
子ども達が虫が大好きだったので、マンション暮らしをしていた時は、休日によく原っぱのある公園へ遊びに行っていました。ですが、古民家のこの家では、玄関の戸を開けたら虫がいます。しょっちゅう虫取りをしていました。また、家には小さな池があり、その池に発泡スチロールの船を浮かべて遊んだこともありました。
大崎上島では、修学旅行の民泊を受け入れおり、うちも子ども達が小さい頃には受け入れて、民泊のお兄ちゃん達にたくさん遊んでもらいました。
民泊のお兄ちゃん達とドラム缶風呂をして、順番に入ったこともありました。
コロナ禍の時には、島外に遊びに行くのが心配だったので、子供会で子供縁日をしました。
割り箸鉄砲、スーパーボールすくい、水風船バトル、水鉄砲遊びなどなど大盛り上がりでした。また、ワゴンでやっている島のクレープ屋さんに来てもらって、美味しいクレープをみんなで食べました。
焚き火で焼き芋をしました。
地域の秋祭りでは、櫂伝馬船という10人程の人で漕ぐ船で「台ふり」という役割をしました。
学校帰りに近所のおばちゃんからきゅうりをもらって帰ってきたこともありました。
夏休みは毎日のように海で泳いでいました。
家族で自転車で島一周をしました。
などなど、たくさんのことを子ども達と一緒にして、本当に楽しい時間を過ごしました。
中学受験との出会い
なぜ、中学受験をすることになったのかというと、大崎上島に広島県立広島叡智学園中学校・高等学校ができたからです。移住する前に、中学受験にチャレンジするという未来は全く想像していませんでした。
私たちが島に来た年に叡智学園が島にできると知り、島民対象の事前説明会に参加しました。担当者の方の熱心なお話を聞き、
「こんな学校に通えたら楽しいだろうな。」
と思い、ワクワクしました。
そこで、もし子ども達が中学受験にチャレンジしたいといった時に困らないように、1年生の頃から最低限の基礎学習だけはきっちりしていこうと1日15分、学校の宿題とは別に家庭学習をさせてきました。
長男が2年生の時に叡智学園が開校し、彼が4年生の時、島の4年生以上の児童を対象にした学校見学会がありました。
叡智学園の先輩達がグループに別れてパソコンの画面をプロジェクターで写しながらグループ活動をしている姿に衝撃を受けたり、シアター機能のある図書館に感動したりして、
「こんな図書館で読書できたら楽しいだろうね。」
と長男と語り合い、中学受験にチャレンジすることにしました。
ありがたいことにご縁があって、長男は叡智学園へ、次男は県広へと進学することができました。
広島の素晴らしいところは、寮のある公立の中高一貫校が2つもあることです。離島に住んでいても、志があれば寮に住みながら学ぶことができます。そのことを知って広島に来たわけではありませんが、結果的にその恩恵を受けることができました。
最後に今の二人の暮らし
夫は、8年の間に何度か仕事を変え、6年前からフルリモートワークのプログラマーとして働いています。古民家の開かずの間だった部分をDIYして、自分の書斎兼仕事部屋を作り上げました。
私は、子ども達が手元から旅立ったことで、この春、幼児小学生対象の塾を始めました。
学校以上の勉強をしたいと思ったお子さんがおられたら全力で支えたいと思ったからです。また、自分が子育てをしていく中で培ったことと教員経験を何らかの形で還元できたらいいなという思いもありました。
また、今年、住んでいる古民家を譲り受け、みかん畑のお世話を始めました。
10年後には、みかんのお世話が上手になって、美味しいみかんを作れるようになっているといいな。大きくなったわが子達や塾生達がふらっと帰ってきてくれる場になっているといいな。そんな夢をみています。
あの時、あの決断を家族でして良かったと心から思っています。
瀬戸内海にある離島に、なにかに導かれるように家族で移住した話でした。移住先は多くの場合、田舎であり、移住した場合に悩むのは子どもの教育です。離島を選んだのは大の島好きであり、子どもの頃に育ったのは明石市で、瀬戸内海は心の故郷で海の見える場所で暮らしたかった。そのことを実現するための過程が丁寧に描かれ、10年後の暮らしへの思いも述べられ、説得力がありました。