枠組みをすり抜けて
京都でシステムエンジニアをやっていた人間が、広島東部の山の中、神石高原町で農家をやることになりました。
別に田舎暮らしに憧れがあったわけでもなくて、諸般の事情から入念に準備をしてやってきたわけでもありませんでした。
もともとの性格からしてインドア派で内向的、現実よりも本とインターネットの中で生きてきた時間のほうが長いくらい。そんな人間が突然こんな環境に飛び込むことになってもうすぐ3年、これまでに感じたこと、今思っていることを書いていきたいと思います。
こんなに早いはずじゃなかった、移住
2021年のGW。僕は、インターネットで出会い、「同じゲームが趣味」ということで仲良くなって付き合った女性と旅行に行っていました。
場所は四国、高知県。ひろめ市場で食べ歩きでもしようか、と話していたところで、突然鳴り出す彼女の電話。話し始めた彼女の顔が曇り、その後、少し考え込むような表情になりました。
マイクのところを指で押さえてこちらに向き直り、彼女はこんなことを口にしました。
「来年から私が受ける農業研修なんだけど、なんか、もう一人いないとできないらしくて、父さんが誰かおらんかって言ってるんだけど……来る?」
二人で話し始めたころからすごく気が合って、付き合い始めてからも毎日楽しくやれていた僕たちは、「そういう話」をそれまでに全くしなかったわけではありませんでした。
私が来年から農業研修をやって、終わったらぶどうの樹を植えて、そこから3年くらいして収穫ができるようになったらこっちに来て一緒に農家やらない?その頃から忙しくなるし。
楽しい将来像として、そんな話をすること自体はありました。
でも、それはあくまで将来の話。早くても5年後くらいの話であって、「来年から」のことを「今」決断する話ではありませんでした。
それなのに、そこで「うん、じゃあ、やろう。」となぜか答えてしまったがゆえに、その次の年の3月から、僕は生活のすべてがいきなり一変するような状況に身を置くこととなったのでした。
経験した3つの激変
そこから一年足らずの間、それぞれがそれぞれの両親に挨拶をしに行き、研修のための体験会に参加したり、関係機関との顔合わせを行ったりと激動の日々が続き、どうにかこうにか2022年の3月に僕は神石高原町に移住することとなりました。
この移住に際して、僕は生活環境における3つの激変に遭遇することになりました。それは、
- システムエンジニアから農家へ
- 都市部から山間部へ
- 個人の集団から地域の共同体へ
というものでした。
1.については、僕の仕事に関する話です。移住する前、僕は京都にあるwebベンチャー系の企業でシステムエンジニアの仕事をしていました。
業界について少し分かる方に向けて説明すると、バックエンド(PHP,Laravel)が主ですがプロジェクトによってはフロント側(Vue)に関わることもあり、PMとして他人に仕事を振り分けつつ、設計・実装もがっつりやる、といった感じの働き方でした。
平たく言えば、一日中パソコンに向き合って、ホームページやゲームのシステムを作る仕事です。元々リモートワーク体制のある会社な上にコロナ禍も相まって、一週間一度もお天道様の下に出なかったようなこともあった、そんな職業であり生活でした。
そんな人間がいきなり農家、一次産業の従事者になろうというのですから、たいへんなことです。しかも僕は実家もベッドタウンのマンションであるような人間で、土いじりのような趣味も一切ありません。だから、農業に関する知識は本当にすべてゼロの状態から始めなくてはいけませんでした。
この文章の趣旨的にここにあまり文量を割くものでもないと思うのでこれ以上は割愛しますが、とにかく、本当に全く畑違い・場違いですらあるような分野にいきなり飛び込んだというのが1つ目の変化でした。
2.については、生活環境や交通事情に関するものです。
僕は移住する前、京都市の中京区に住んでいました。市営地下鉄でもJRでも嵐電でもどこへでも行けるような環境で、こちらに来るまで車の免許すら持っていませんでした。
生まれ自体は別に京都市ではなく滋賀なのですが、僕の出身地のあたりは国道1号線が通っていたり、名神高速のインターがあったりと、けして都会ではないながら夜中までかなり人通りがあるような場所でした。
だから初めて神石高原町にやってきたとき、道路に街灯がほとんどないことにとても驚きました。
「町内にコンビニは1つしかなく、そこも21時に閉まる」「飲食店などのチェーン店は1つも出店していない」というようなことは、先に聞かされたり、調べたりして知っていました。でも、街灯の存在というのは僕にとって普段意識しないものだったので、恥ずかしいことに、「それがないと道が暗い」ということすら頭になかったのです。
なので、自分たちの車のライト以外に明かりがない道を進んで山を登っていくとき、「そうか、こういうものなんだな」と改めて移住の実感が湧いた記憶があります。
……このとき僕が「街灯がない!」と驚いた道は町内の大動脈たる国道182号線で、そこから道はどんどん細くなり、家に辿り着くためには最後に林の中を抜ける必要がある、というのは、また別のお話です。
3.については、地域の中での人間関係についてのことです。
僕が直前に住んでいたのは、単身者向けのワンルーム。隣の部屋の人の顔も知らないし、もっと言えば人が住んでいたかどうかも定かではありません。エントランスで誰かとすれ違えば挨拶ぐらいはしますが、地域での交流といったようなものは、全く縁がない出来事でした。
子供の頃を考えても、自治会はたぶんあったし、ラジオ体操には出た記憶がありますが、そんなにしっかりと「この地域に住んでいる」という気持ちになるようなものではありませんでした。あるいはこれは当時僕が子供だったからというだけかもしれませんが、いずれにせよ、こちらに来るまでの僕は、地域コミュニティというものにほとんど参加した経験がありませんでした。
そんな人間が、今は地域のお宮の氏子であり、神石高原町消防団の団員となっています。また、地域の定例会は月に1回必ずありますし、夏と新年にはみんな集まってお酒を飲み、冬場にはバスに乗って日帰り旅行に行くこともあります。年に2、3回草刈りもあったり、周辺2キロくらいの皆さんと顔を合わせる機会がすごくたくさんあります。
コロナの頃、何か月もの間slackかdiscord(コミュニケーションアプリ)を通してしか人の声を聞かなかった時期の自分にいきなりこれを喰らわせたら、恐らく卒倒してしまうでしょう。極端に人の顔を覚えるのが苦手なのに、それでも地域の人の顔と名前はだいたい一致するようになりました。それだけよく会うということです。
以上のような3つが、移住に伴って僕が経験した激変でした。何をもって逆とするかを定義することは出来ないけれど、「これまでと真逆の環境に身を置くことになった」と表現しても、そんなにおかしくはないのではないでしょうか。
それでも、なんとかなっている
そんな激変の中に身を置いて早2年半、僕がどうなっているかというと、それが今のところなんとかなっているのです。
農業は今年の春に無事に2年間の研修を終え、自分たちの農園を作ってぶどうの樹を植えました。100パーセント思うように言っているかといえばそうではないものの、当初の予定通り、3年目から収穫が始められそうなくらいには成長してくれています。
農業の知識は全くなく、やろうという話が出るまで率直に言って興味も持ったことがない分野でした。でも、元々僕が読書を趣味にしていたのは、「何かについて詳しくなること」が好きだったからでした。
何かに詳しくなるためには、まず文書などになっている二次情報から学びを得るのが一番確実な手段ですが、その二次情報の元となっているのは実際にその何かに触れている人が持つ一次情報であり、それが文章になるときにどうしても抜け落ちてしまうニュアンスや詳細があるはずです。だから、もっと詳しくなりたいと思ったら、誰かに一次情報をもらいに行くか、自分でその何かを経験して一次情報を持っている側の人間にならなければいけません。
農家というのは、その一次情報の重要さがすごく大きい仕事です。
自分たちが作る農地と本や論文の下になったデータを取った農地とで土壌や気候が異なっていて、そういう環境要因が生育に与える影響が思いのほか大きい、といった理由によるものなのか、二次情報を元にしたやり方よりも先輩農家の方の真似をした方がうまく行くことがよくあります。
僕は前の仕事で、「問題の解決のために調べて知った様々な方法を試してみて、やったからこそ得られた知見を自分たちの中に貯めていく」ということにやり甲斐を感じていました。
農業は、そうした部分が業務の中で占めるウエイトと、その知見の重要度がもっと大きい仕事だと言えると思います。そういう意味で、今は農業ほど自分に向いている仕事もそうないのではないか、と感じています。
生活環境については、神石高原町の立地条件に助けられている部分もたくさんあります。
山間部で、過疎問題を抱える田舎であることは間違いないのですが、実は意外にも交通の便はそんなに悪くありません。
電車の路線は全く通っていないので車を運転できることが前提にはなりますが、僕の住んでいる場所から山のふもと、福山市の神辺エリアまでは30分程度。1時間あれば福山駅まで行くことが出来ます。
だから実は、普段の買い物をしたりどこかに出ていくという時に感じる苦労はそこまで大きくはありません。逆にいえば、この神石高原町という土地は、新幹線が停まったり、一桁国道が通っていたりする所から1時間以内の土地としては破格に山かつ田舎である珍しい地域だと言えるかもしれません。
僕のもともとの性質がうまくかみ合った部分もあります。
僕は控えめに言ってもけして生活力の高いほうではありませんが、料理だけは大学生の頃から習慣的に行っていて、とりあえず病気にならないくらいの栄養がある食事を自炊して作る能力はありました。だから、ふもとのスーパーや道の駅で食材をまとめ買いしておき、普段はそれを食べるという生活ができたのです。
いくら30分車を走らせれば街に出られるとはいえ、この部分が欠けていたらこの場所で暮らすのはなかなかしんどかったのではないかと思います。夜に開いている飲食店が地域内にないのはもちろんとして、出前アプリを開いても対象店舗が一つも出てこないため、食べるものに大きく制限をかけて過ごすか、かなりの時間とお金を毎日浪費することになります。
近場に娯楽があまりない、というのも人によっては住む上で辛く感じるのかもしれませんが、本とインターネットの中で人生のおそらく半分以上を過ごしてきた僕には全く苦になりませんでした。余暇の過ごし方という点については、京都市に住んでいた頃とほとんど全く変わりありません。むしろ以前はもったいない生き方をしていたとも言えるわけで、僕のようなタイプの人間には、むしろこういう環境が最適だったと言えるのかもしれません。
ただ、生活環境の部分については、一緒に住む相手がいる、ということの影響は決して無視できないとは思います。料理以外の家事が壊滅的に苦手な僕が散らかした場所を片づけてくれているのはもちろん、家の中にずっといても気分が落ち込まないのも、大いに彼女のおかげであると感じています。一人で生活していたら絶対にうまくいかなかったということは間違いありません。
相手に恵まれたという意味では、地域社会との関わりの部分についても同じことが言えます。
どこの馬の骨かもわからない、礼儀も分かっていない人間が快く迎え入れてもらえた理由は、土地の性質みたいなもので片付けるべきではなく、ましてや僕の生まれ持った何かのおかげであろうはずがありません。ひとえに周りの方々のご厚意によるものです。
引っ越してすぐの荒神さんの春祭りで勧められるままにお神酒を飲んでいたら、「大酒呑みがやってきた」と可愛がってもらい、それ以来地域の飲み会では手土産としても酒を持たせてもらえるようになりました。
お宮の秋祭りでは、しめ縄作りにも参加し、周りの人を盗み見ながらおっかなびっくりで神祇を打たせてもらうようになりました。
消防団では今年の夏のポンプ操法大会の選手に選ばれ、文字通り右も左も分からないところからご指導いただき、身に余るような賞をいただくことが出来ました。
この土地の文化や土地自体を愛する方々に迎えられ、微力ながらもその一員になれたことは、自分にとってすごく幸福な体験でした。
繰り返しになりますが、これらすべては僕が何かをしたからとか、どこに行っても同じようになるとか、そういうことは全くありません。ひとえに周りの人に恵まれて、どういうわけか優しくしてもらえた、ということに尽きます。
ただ、おおよそ真逆の環境からやってきたような人間でもあたたかく迎え入れてもらえたという例が少なくとも一つはあるということだけは言えます。
どうするといい、というようなことは何も言えないけれど、実際僕は今のところなんとかなってます。
もし移住を考えている人に僕が何か言えるとしたら、そんな感じのことになりそうです。
重要なのは属性ではない
あるいは、ほかに言えることがあるとすれば、「大きな枠組みで考えればうまくいきそうになくても、一つ一つの要素がかみ合ってうまくいくことはある」というようなことでしょうか。
「田舎暮らしに憧れたことすらない京都のシステムエンジニアが、広島の山中で農家になる」と聞けば、うまくいくと予想する人はそう多くないでしょう。
生活環境にしろ仕事にしろあまりに共通点がなく、地域になじめそうもないように見えます。
ところが、「何かに詳しくなる」ということにやりがいを見出している僕にとっては農家はすごく面白い仕事ですし、家から出なくても楽しく生きられる僕にとって田舎は適した環境でした。それから、こればかりはただ幸運なだけではありますが、地域のみなさんにもあたたかく迎え入れてもらえました。
「農家」「田舎」「地域コミュニティ」に「SE」「京都市」「個人主義」というように、属性から考えれば到底うまくいかなさそうですが、「神石高原町」に「僕」であれば、今のところうまく行きつつある、ということです。
逆に言えば、「ちょっと田舎暮らしでもしてみたいな」と考えて「田舎の中の一つ」を探すよりも、それぞれの場所が持つそれぞれの特性をあたってみて「きっと自分にここはぴったりだ」と思える場所を移住先に選ぶ方がうまくいきやすい、と言えるのかもしれません。
もちろん、僕の場合はまだ移住して二年。農業はまだスタートラインに立ったと言えるのか怪しいくらいですし、今後子供が生まれたりして環境がどうなるか、また、「まだ来たばかりだから」と免除してもらっているたくさんの地域の仕事を果たしてうまく果たせるのかといった不安要素はたくさんあります。まだ、「うまくいった」とはっきり言えるわけではありません。
とはいえ、それでも、かつての自分よりも今の自分のほうが幸せであることは断言できます。たとえ今後苦難が襲ってきたとしても、この土地でなんとか乗り越えていきたいと思える程度には、この神石高原町を好きになりました。
僕は別に移住したいとも、田舎で暮らしたいとも思っていなかったけれど、こんなにも自分の性に合う土地に出会うことができました。
ともなれば、今そういう風に考えている人にも、必ずどこかにその人にぴったりの場所があるはず……と、僕は勝手に思っています。
インドア派で内向的、現実よりも本とインターネットの中で生きてきた時間のほうが長かったと自己評価する男の3つの激変した移住暮らし。まだ入り口に入ったばかりだが、それでも、何とかなっていると移住暮らしを評価しました。心の動きが面白かったです。