「土にかえる」
昭和40年生まれ。4人兄弟の末っ子として兵庫県に生まれ育つ。
父は、昭和そのものの人。戦争を経験しているからの、厳しさしか子供の頃の印象はない。
正直・・嫌いな存在だった(と思う)
多かれ少なかれ、父よりも母に想いを置く方が多いだろうし、私もそうだった。
戦後、大阪で商売をするために、故郷を後にした父。
その意思のまま、丁稚奉公から番頭格となる。
キラキラと輝かしく、ひとり立ちされたのだと思う。
誰もが、一目置くような存在だったのだと、わが父ながら、尊敬するものでもある。
それでも、身近な存在(父)としては、ぞんざいに・・関わりたくない存在だった(と思う)
そんな父。
昭和そのもの、と思うのも、すべてが母任せだったからだろうか。
家の事は全て、母。母は専業主婦ではないのに・・・。
母も父の商売を共に営む立場にあった(知らぬ顔できぬ状況、父ひとりで商売が出来るものではない。必然的に母も同様に動かざるを得ない)
子供4人を育てながら、家事もやりながら、父の商売もささえていた母。
こう記すだけでも、どれだけ大変だったろうか・・とご想像されると思う。
そんな環境であったことも、父を毛嫌いする事につながるのは、お察しいただけるだろう。
言葉すくなく、寡黙、とまで言わないまでも、多くを語らず(しゃべらず)の父。
そんな父なのに、母が先に亡くなってしまった。
1999 年。
父もまさかそんな日が来るとは思っていなかっただろう。
母も、父を残して(自分がいないと着替えもどこにあるかわからないような人を)心配でしかなかったと思う。
そんな父と私は同居する事となる。
正確には、、母が亡くなるまでは家族3 人、平凡に過ごせていた。
それが突然の母の死から、兄が同居することとなり、兄とも折り合いの悪い私は、家をでる。
さらに、その後に、父も「迎えに来てくれ」となる。
残された言葉
そんな父との暮らしの中から漏れ出た言葉
「山にかえりたいなぁ」
「ええ所やぞ」「星がきれいでなぁ」と、
半分も聞く耳持たない私に、度々そんなアピールをしてきた父。
父がどれほどにその山を(神石高原町)アピールしてきても、私にとってのその地は、ただただ、暗い景色(小学校の頃までは毎年、帰省をしていた。新幹線で福山に着くのは、外も暗い時間。そこからタクシーで1 時間程山に入る、そこには、ただただ、土の匂いしか記憶にない。)そんな地に、30 代の、街でしか暮らしたことのない私が行って、何をするんだ? どうやって暮らすのだ?・・・まったくもって却下、しかない話。
2001 年。
父は、「かえりたい」といっていた、山に戻れぬまま母の迎えを受けることになる。
34 歳で母と、36 歳で父とも離れることになった。
有難い、というのか、おかげさまでその後の私の人生は、波乱万丈となる。
父・母と健在だった頃のような、平々凡々・・なんの苦労もないお嬢さんではいられなくなった。歯を食いしばって暮らすことにもなった。
人生の機微を味わう
そんな中で、時折耳に呼び起される言葉
「亡くなったものは土にかえる」
最初に飼っていた犬(小学生の頃からいた)が亡くなった時の父の言葉。
なので、そのワンコは、明け方になくなり、お昼前には墓苑にいた。
「亡くなったものは土にかえる」
そういわれ、そのように行動していたものの、
なんとも田舎の人の言いそうな言葉、くらいにしか受けとめていなかった(意識していなかった)
その言葉が、今回の私の移住に大きなキーワードとなるのだ。
両親他界後は、ワンコだけが、私の家族だった。
母が亡くなるちょうど2 年前に迎えたワンコ。(母の分身のように思えた)
そしてその後に迎えた、私の仕事上でのサポートもしてくれていたワンコ。
当然、最初の「亡くなったものは土にかえる」と墓苑に向かったワンコ・・・
3 代のワンコとともに、私はどこに納まるのだろうか?
大阪へ丁稚奉公としてやってきた父。
この地に骨を埋める、そう心していたのだろう。
母が先に眠ることとなった箕面にある(大きな)墓苑。
どの聖地よりも大きな区画を用意していた父。
末代までここに納まれるように、と用意してくれたのだった。
そんな思惑とは遠く、跡を継ぐものなく、墓じまいされることに。
嫁にも出ていない私も、ゆくゆくはそこに入ることになっただろうが、
家を出たことからも、墓場まで一緒に行く気はない(兄と)と心していたので、
墓じまい以前に、自分の納まりどろろも遺言書に記すほどだった。
ただ、現実として、墓じまいされたとなると、父の言っていた「土にかえる」言葉が頭を
よぎるようになった。
そんな気づきを起こさせてもらえたのが、ある「樹木葬」墓苑への見学にあった。
ペットと同じ墓苑、というのがまだまだ制限されている。
好きに、とは行かない選択肢。
ただ、なにがあろうと、わたしは手元にいてくれる、最期の最後までつくしてくれた家族として、
この子達と一緒に納まることしか思っていなかった。
なので、粉葬(海に?)とも考えていた。
その一つの選択肢として「樹木葬」について、見学に出かけたのが、昨年の秋。
伺ったその地は、私の思うものと(いい意味で)違っていた。
樹木葬
樹木の根元に(石碑の代わりに)お骨を納めるもの、と思っていた。(粉骨を撒くのかと思
ってもいた)
しかしながら、その墓苑の取り組みに愕然とした。
100 年計画で、自然に還します。
樹木はそのままに、自然の姿にもどす。人工的ではない、自然の山にもどします、との話。
自然に戻す。山に還す。まさに(お骨は)土に還る、ということだった。
父が口にしていた「土にかえる」そのものが、これだったのだ。
ペットの動物たちも一緒に、土に還る事ができる、その「樹木葬」というものが
私の納まり処だと、わかった。
「樹木葬」私の終着点がそれだとわかった時から、その納まり場所は、父の口にしていた
「山」でありたい、と思った。
とはいえ、その「山」がどんなところなのか、全く知らない。
帰省していた記憶は、ただただ「暗く」「なにもない」「魅力のない」「山」でしかなかった。
その日から、その「山」を知りたくなった。
『神石高原町』・・
私の記憶にあるのは、神石郡三和町小畠(村) だったと思う。
※夏休みの課題図書に紹介される「黒い雨(井伏鱒二)」の場所でもある。
この町は、3町1 村が合併した、過疎にならないための苦肉の策。
なのに、今や8000 人を切る人口となっている。
どんなことがあっても(どんなに不便なところであっても)私は、そこに「樹木葬の丘を創る」と決めている。
なぜなら、そこが私の納まり処だから。
それが完成されないと、私は死ぬに死ねないからだ。
そんなことを想いながらも、何から進めればよいのか? まったく見当もつかない。
ただの机上のイメージ(理想)でしかなかった。
そんな「できたらいいなぁ」の話のようでありながらも、私は動くことになる。
突然のはなし
有難い事に、住んでいたマンションの取壊しが決まる。
立退きとなり、転居先を早急に考えなければならなくなったのだ。
どこに住む?
そんな時に、
いつか移住するのなら、今でもいいのか?
そんな見切り発車のなかで、田舎の本家を継ぐ、従兄への連絡することにしたのだった。
従兄とも、父が亡くなった時の帰省以来・・・
季節の便りすら怠っていた私からの手紙など、さぞ驚くだろうな・・・さらに、移住を考えている、との文面をどう思うだろう・・・そんな不安の中、数日がたつ。
知らない番号からの着信。
田舎の従兄から?そう思った電話は、その従兄の娘さんだった。
話のなか、本当に有難く、かつ申し訳ない思いになる。
疎遠の中で、従兄もすでに亡くなっていたのだった。
私との面識もないお嬢さんから、「父はいませんが、私で何かお役にたてるなら、、」と。
なんとも言葉がない。
父の「土にかえる」というキーワードから、本当に輪廻転生のように、命は循環していく、土に還り、自然に戻り、またそれが肥しとなり、命に繋がる・・
見切り発車の私の行動から、
知らぬ土地ながらも、それぞれの父親の言葉を実行することに。
従兄姪は、その父である従兄から、つねづね、
「目の前の困ってる人の役にたちなさい」と言われていたそうだ。
その言葉を実行するだけです、と話してくれた。
お互いに、父親の存在の大きさに気づいて、繋がることができた。
挑戦のまち
4月に連絡をとり、話はとんとん拍子に進んだ。
願っていたバス通りにある町営住宅へ手続きが整う。
そして6月に移住
こんなに勢いよくすすんでも、私の中では(やっていきたい構想には)なんの準備もできていなかった。
とりあえず「移動」しただけ。
それも不安のなか・・・
何から始めれば?と不安になりながらも、やるべきことはあった。
私のやりたい事にむけての行動。
何をおいても、この町と、山と仲良くなること。
なにも知らないままに移住してきたのだから、とにかく情報を得たかった。
「樹木葬の丘」を創りたい。
そう思いながら、山の事を調べる内にわかったこと。
中国山地そのものが、いま危機にあるということ。
そして、この山を生き生きとさせてあげたい。
この町の(山の)良さを、もっと広く多くの方に知って頂きたい。
沢山の方に(父が自慢していた)この町の(山の)良さを広めたい・・
とにかく私に出来ることから始めよう、それしかなかった。
よそ者がやってきたのだ。まず、挨拶に行かなくては
・・・どこに?
引越し早々にでかけたところが、氏神様だった。
土地の神様に、知っていただくこと。そして、新参者を認めていただくこと。
ただただ、それに尽くした。
日課のように氏神様に挨拶に伺うのと同じように、私が積極的に行動したこと。
それは、町の方に近しくなることにあった。
何かの集まり、お祭りなど、人の集まる所には顔を出させて頂いた。
そうするうちにもおぼえて頂けるようになった。
田舎の良い面(良くない面)としてよく言われるのが、お節介をやかれる(色んな事に絡んでくる)こと。
煙たく思う(感じる)方もあるかも知れないが(それが田舎暮らしへのハードルとされたり)逆に、私には、ありがたかった。
何より、よそ者を受け入れて下さっている証拠だと思えた。(関心を持ってくださること)お世話して下さることも、この地に身寄りのない者にはありがたい。
何かにつけて、言葉かけして頂ける。
都会暮らしにはない面が、そこここにあり、有難いと感じるものだ。
移住してよかったと思える瞬間でもあった。
この山に移住し、ひと月、ふた月と過ごす中で、まったく知らない筈のみなさんの温かさのお陰に、もう随分長く暮らしているような気になった。(まだ半年もたたない)
そして、私のやりたいことを神様にお願いしつづけた。
なんとも・・神頼みか?と思われるかも知れないが、一番大事だと思っている。
自然と共生させていただくのだから。
自然に受け入れて頂いて、認めて頂いて、力を貸していただく。
これから、私のやろうとしていることは、そういう事なのだと肝に命じていた。
こんな事を記すと、父が最初に口にした「土にかえる」(田舎の人のいいそうなこととした、)話の時の私は、いったいどこに棚上げしたのだ、と笑われそうだが・・・
それもこれも、年を重ねたおかげかも知れない。
人生の機微を知ることから、成長したのかも知れない。
毎日のように、氏神様をたずね、手を合わせた。
そして、私のやり遂げたいことを話し続けた。
そうするうちに、
あるとき神様に認めて頂けたような気になった。
ありがたく、感じられるようになった。
山をよくしたいと思う奴を
悪くあつかうものはいない
山の神様に、受け入れて頂けたように思っている。
この山を復活させたい。
たくさんの方に、共に暮らせる地として活用いただきたい。
山のことなど、なにも知らないよそ者が、何をいうんだ!とお叱りをうけるかも知れないが、このままでは、山が泣いている。
そもそも、今回の山への移住は、ただただ、私の(個人的な)「樹木葬の丘」に眠りたい、という、自分の納まり処を創らねばならない、実行にあった。
しかしながら、実際に行動を起こしてみると、
「過疎の町」だったこと。「生活の商業施設に欠ける」こと。「移動手段(公共交通)がない」こと。街の生活になれている身からすると、考えられない現実でもあった。
だがそんな事は、どうにでもなるものだ。(なっている)
ただ、泣いている山を復活させることには、大きな力が必要である。
ひとりではできない。みんなの結束がないと、と痛切に感じている。
それにおいても、頭の中でぐるぐるしている状態にて、これからのことでもある。
そんな前途多難とも思えるわが身ながらも、先人のみなさんを拝見しても、達成されている。
どなたも、掲げた目標にむかって、その姿を創造されている。
だから、私にも出来る。そう信じている。
この地(挑戦のまち)に生きる
移住してみると、面白いほどに、興味関心は倍増していく。限りなく広がるのだと思える。
今まで、なんとも感じなかった事に感動する。
庭の蟻の巣を壊してしまった事に、申し訳ない気になる。
都会暮らしでなら、「あ、ごめんね」だけでスルーしていただろう。
それが、毎日のように果物のヘタを差し入れてみたり、
部屋の中に侵入してきた虫たちも、命を尊重して(外に)移動願う。
小さき命を尊重できる優しさが増した。
そうすると、秋には虫たちがよい音を聴かせてくれた。
虫の息になって、挨拶に(別れに)来てくれたりもした。
あらゆるものと共存・共生することを学べる地にもなった。
街の中で、日々の(自分では歓迎しない)騒音に流された時間から解放されたように思える。
本当に、ここに移住出来てよかった。
挑戦のまち、として幟を掲げるこの地が、わたしにあっていると実感する毎日。
やりたいことがある。
出会いたい人たちがいる。
であいたいワンコがいっぱいいる。
※ピースワンコジャパン(保護団体)の拠点でもある。
還暦を前にする私の、まだまだやりたいこと(挑戦)に、ともに声を掲げてくれるみなさ
んがいて下さる。
ここにきて、改めて「想いを発信することの大切さ」を感じた。
「山にかえりたい」とその想いを、口にしてくれた父。
父の郷里に暮らし、さらに身近にご先祖の息吹を感じ、感謝しかありません。
この企画にて、今の感謝の想いを記させていただけたことに感謝し、お礼申し上げます。
向き合う機会をいただき、ありがとうございました。